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子育てエッセイ

松井るり子
  岐阜市生まれ。児童文化専攻。文筆業。暮らしや子ども、子育て、絵本についての著書多数。
 たおやかで独創的な目線から書かれた文章は、子育て中のお母さんをほがらかに励ましてくれます。
 この連載は、冊子「こどものまど2012年度」(鈴木出版刊)に掲載されたものです。

連載9 踏みきり板になりたい

 絵本を読む親の声に、子どもが喜んで耳を傾ける時間はそう長くはないと思いますが、みなさまご自身はいかがでしたか? ご両親のお声を「聞いているだけでうれしい」なんて、ほんとうに幼いときだけではなかったでしょうか。親の声はやがて「うるさい」「ウザイ」ということになって、その後は「ハイハイわかりましたよ~ん」になって、その後は親の衰えに気づいた子どもが、老親をいたわる方向へと、力関係が変わってきたのではないでしょうか。それが、仲良し親子の健全な姿だと思います。
 
 友人の息子さんがご結婚なさり、家族結婚式の楽しそうな写真を拝見しながらおしゃべりしたときのことです。
 子ども夫婦が幸せに暮らしていることが、何よりうれしい。私たち親との暮らしがどんなに良いものであっても、それは「練習」にすぎなかった。親から離れて、自分が選んだ人と一緒に作った家庭で暮らすことが、人生の「本番」だ。本番で幸せならば大成功…ということで意見が一致しました。
 
 それからしばらく後、『100万回生きたねこ』(佐野洋子/作・絵 講談社)を読み返していたときに、この猫にも人生の「練習」と「本番」があったのだなあと思いました。
 この絵本は、私の学生時代に出版されて、すぐにたくさんのファンを獲得しました。就職した年に自分の給料で買った絵本が、経年のシミを浮き上がらせて今も手元にあります。扉(表紙を開くと、もう一度、題名と作者名が書いてあるページのこと)の猫さんは、娘が1歳9か月の時に描いた、茶色いクレヨンのらくがきに埋もれています。かわいいので鉛筆書きの日付けとメモとともに、そのままにしています。
 最初に読んだ頃は、こう思いました。嫌いな相手と暮らしては死ぬことを、100万回も繰り返していた猫が「輪廻」を教えてくれて、大好きな相手を見つけて幸せに生きて死んだ後は、生き返らずに「解脱」を教えてくれたなあと。手塚治虫のマンガ『火の鳥』と並ぶほどあざやかに、難しい観念を易しく説いてくれる本だと思い、絵本とマンガの底力を知りました。佐野洋子さんのエッセイはまた、妙に気分がスカッとするので、文庫本は全部揃えて、時々読み返しています。
 『100万回生きたねこ』は、二度と生き返らなかった猫に手向けるように咲く花が、ありふれた雑草のイヌタデであるところに、いつも胸が詰まるので、用心してあまり頻繁に開かないようにしています。でも時々開くことで、自分の感想が変わってくるのが興味深い一冊でもあります。
  この猫は人間と同居して、与えられた役割を果たしながらも、飼い主なんか大嫌いと言い放ち、死ぬことも平気でした。猫を失った飼い主は泣きますが、猫はさっさと生まれ変わります。
 これは、私たち親の元で、いろんな気持ちを練習していた子どもと一緒だなあと感じます。子どもは親を選んで生まれてくると言いますが、子にしてみれば、「私はここを選んだ覚えなんかないよっ!」と言いたい場面だらけのことでしょう。親の方は子どもによかれと思って差し出した、あれもはずし、これもはずしたあげく、うっとうしがられてしょんぼりします。子どもは平気で、そんなことには傷つきません。
 傷つかれたら困ります。これでいいのです。子がいとおしいのは当たり前のことで、親は存分に好きにすればいいのですが、子が親からもらったのと同等の愛情を、親に返したら、それは間違いです。生家で、親を相手に、愛情を浪費している場合ではないのですから。
 「だれのねこでもありませんでした」という絵本の野良猫と同じく、子どもは自分が自分の主人である、孤独で自由な時代を迎えます。やがて「そばにいてもいいかい」と問いかけたい相手を見つけ、果敢にも不自由のなかに再突入して子をなすのが、彼の人生の「本番」なんだなあと思います。
 
 娘が結婚してしばらくの後、手紙をくれました。「私は結婚して、人生3倍よくなりました」。夫は愛娘を手放した寂しさからでしょうか、「それはわしらとの暮らしがよくなかったってことか?」と、かわいくいじけていましたが、私は後にも先にも、こんなにうれしい手紙をもらったことがありません。親との気持ちのやりとりで「練習」したことを生かして、伴侶との暮らしを、それまでの3倍よくする知恵と力と思いやりを、彼女が自分の中に育ててきたことを、晴れがましく、誇らしく感じました。
 跳び箱の踏みきり板みたいに、子どもをポーンと弾ませる親になれたら本望です。

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