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仏教を伝えるおはなし

『仏教的生き方のすすめ5 すべては「空」だ』
すべては「空」だ
「4 神さまの股くぐり」より

洋の東西を問わず、古代の社会には、

ーー神の裁きーー
というものがありました。ある犯罪があって、容疑者がいます。しかし、この容疑者はなかなか自白しません。古代の社会ですから、もちろんこの容疑者を拷問にかけるでしょう。それでも白状しないのです。
そのあげくに行われるのが「神の裁き」です。
これにはいろんなやり方があります。
たとえば、中世ヨーロッパで行われたおもしろい神の裁きは、サイコロを転がして白黒を決めるものです。ふたりの容疑者がいて、いずれかが犯人であることはわかっているが、ふたりとも白状しません。そこで神に裁いてもらうことになりましたが、そのやり方は、ふたりがそれぞれふたつのサイコロを振り、出た目の数の和の多いほうが白、少ないほうが黒とするものです。
「そんなデタラメなやり方があるかい……?!」
と絶句される人も多いかと思いますが、実際にあった話です。ついでにいっておきますが、「デタラメ」という日本語の語源は、一説によると、
《さいころを振って出たら、その目にまかせるの意か》(『日本国語大辞典』)
といわれています。まさにデタラメなやり方なんですね。
わたしたち日本人がよく知っている神の裁きには、例の「盟神探湯〔くかたち〕」があります。これは熱湯の中に手を入れ、火傷をした者は黒、火傷をしない者が清廉潔白とするものです。熱湯で火傷をするのはあたりまえーーと、わたしたちは思っていますが、古代人は罪なき人間は熱湯でも火傷をしないと信じていたのですね。これはデタラメではなく、どうもインチキとしか思えませんね。

ところで、古代のインドには、
ーー股くぐりーー
という神の裁きがありました。ヤクシャ(薬叉)というヒンドゥー教の神さまの神像があって、その股くぐりをします。嘘をついている人間は神像の両脚の間をくぐり抜けられないが、嘘をついていない人間はするりとくぐり抜けることができるーーという裁きです。わたしたち現代人には、そんな裁きはインチキに思えますが、古代のインド人はまじめにそう信じていたのです。
この股くぐりという神の裁きに関しては、こんな話があります。これは『鸚鵡〔おうむ〕七十話』という説話集に収録されている話です。また、この説話の類話は、仏教説話の『ジャータカ』などにも出てきます。
浮気な女房がいました。彼女はある商人と浮気をしていました。それは世間のうわさになって、誰知らぬ者とてなかったくらいですが、ただ彼女の夫だけは妻を信じていました。『鸚鵡七十話』は、そこのところを、
《いかに賢い男でも
女に惚れたら無我夢中
女にとって男など
掌の中の水も同然》(田中於菟弥訳)
とうたっています。日本では、
「知らぬは亭主ばかりなり」
という川柳がありますね。フランス語では、女房を寝取られた夫を「コキュ」と呼んでいます。インドも日本もヨーロッパも、昔も今も、「女は強し、されど男は弱し」ですね。
それはともかく、浮気な女房がいて、世間のうわさになっているのに、亭主だけはおめでたく女房を信じている。それで、亭主の父親、浮気な女房の舅〔しゅうと〕が、なんとか息子のために嫁をとっちめてやろうと、虎視眈々〔こしたんたん〕と嫁を監視していました。そして、嫁が情夫と楽しんでいる現場を見つけ、嫁が足にはめていた足環をひとつはずして持って行きます。
〈さあ、たいへん……〉
と、さすがの浮気女も困ってしまいます。しかし、彼女はなかなか頭のいい女性で、すぐに対策を講じました。
まず、情夫を帰らせます。そして、夫を呼んできて、夫といっしょに寝ます。寝る……といっても、お目々を閉じて眠るのではありません。おわかりですよね……。ベッドの中で、彼女は夫に言います。
「あなたのおとうさんが、わたしの足環をはずして持って行ってしまったの……。困るわ、わたし……」
「よしよし、俺があした、親父から取り返してやるよ」
かくして、翌朝。
息子は妻の足環を返してくれと父親に言い、父親はおまえの妻が浮気をしている証拠に、この足環を持ってきたのだ、と主張します。ふたりが言い争っているところに彼女がやってきて、
「あら、わたくしはこの夫〔ひと〕と寝ていたのですよ。浮気だなんて、とんでもありませんーー」
と断言しました。そして、ヤクシャ神の股くぐりをしようと申し出ます。それによって、身の潔白を証明するーーというわけです。
そんなことをして、大丈夫なのでしょうか……? わざわざ自分から神の裁きを申し出るなんて、彼女は神さまを馬鹿にしているのでしょうか。
かくて、その翌日、股くぐりが行われることになりました。そのために彼女は、前夜、情夫のところに行って打ち合わせをしました。
「あす、わたしが股くぐりをする前に、あなたもヤクシャ神のところにきて、気が狂った人間のふりをしてわたしに抱きついてちょうだい。忘れちゃだめよ」
「ああ、いいよ」
情夫は約束します。
そして、当日、浮気女は舅や夫やその他おおぜいの人々とともに、ヤクシャ神の社に行き、股くぐりをする前に近くの池で斎戒沐浴〔さいかいもくよく〕をしました。そのとき、約束を守って情夫がやってきて、いきなり彼女に抱きつきます。
「まあ、いやらしい、何をするの?!」
彼女は情夫を突き飛ばし、情夫は男どもによって追い払われてしまいました。その後、彼女はもう一度、沐浴をします。
そして、股くぐりをはじめます。もちろん、その前に、彼女は大声で立証すべき内容を言います。
「ヤクシャ神さま、わたしは貞操が疑われています。それで股くぐりをして、身の潔白を証明します。舅が疑っている一昨日からきょうにかけて、わたしの肌にふれた男は、わたしの夫だけでございます。いえ、たったいま、わたしはあの気の狂った男に抱きつかれました。だから、一昨日からきょうにかけて、わたしにふれた男は、夫とあの男だけでございます。それが嘘であるなら、わたくしはきっとヤクシャ神さまの股をくぐれないでしょう。股くぐりができるかどうか、皆さんはしっかり見ていてください」
じつに頭のいい女性ですね。
これを聞いて、ヤクシャ神も彼女の機智に感心し、黙って股をくぐらせてやりました。これがインドの説話です。

わたしがおもしろいと思うのは、彼女の知恵もさることながら、その彼女の知恵を褒めそやすインドの神さまのものの考え方です。これが日本の神さまであれば、はたしてこういくでしょうか……。ひょっとしたら、日本の神さまであれば、
「何を言うか?! けしからん! 自分が浮気をしておいて、夫に悪いことをしていて、それが発覚しそうになると、神さまをうまく利用してなおも夫をだまそうとしている。そんな悪い女を許すわけにはいかん! 股くぐりをさせてやらないぞーー」
そう言って怒るのではないでしょうか……。きっとそうだと思います。
ご承知のように、日本の神さまは、いわゆる、
ーー正直ーー
が好きなんですね。「正直の頭〔こうべ〕に神宿る」といって、正直者を日本の神は嘉〔よみ〕します。彼女のような不正直が大嫌いなのが、日本の神さまです。もし、わたしが、ここで彼女の知恵を褒めそやすならば、
「おまえは何を言っているのか?! そんな知恵は“悪知恵”であって、本当の知恵ではない!」
と、わたしまでが叱られるでしょう。その点が、インドの神さまと日本の神さまの大きな違いだと思います。
そして、わたしが言っておきたいことは、仏教はインドに発祥した宗教です。だから、仏教は、インド人のものの考え方に立脚しているのです。すなわち、仏教は、非常に、
ーー知恵ーー
が好きなのです。日本人であれば、「悪知恵」「ペテン」と呼びかねないものまで、仏教は褒めそやすのです。その意味では、仏教は「知恵の宗教」だといえるでしょう。わたしはそう考えています。


(『仏教的生き方のすすめ5 すべては「空」だ』ひろさちや/著より  小B6判 上製 本文206頁 税込価格1,260円)