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鈴木出版のあゆみ

創業50周年のあゆみ
鈴木出版創業のころ
 ウォルト・ディズニーの絵合わせとすごろく
鈴木出版を創業したのは昭和29年1月です。
  最初に発売したのが、ウォルト・ディズニーの絵合わせとか、すごろくなどでした。
  玩具市場は今と違って子どもが多かったので、どこの百貨店に行っても非常に広いスペースを取っていた時代でした。
  テレビやテレビゲームもない時代でしたから、正月がくればカルタ、すごろく、羽根つき、凧揚げなど伝統的なものが遊びだったわけです。ほんとうは本の出版をしたかったのです。しかし、少ない資金のため、委託制度の出版流通では清算が長くて駄目なので、回転の早い玩具業界に向く商品の中から出版に近いものを企画したのです。
  父親の時代は鈴木仁成堂といって、個人経営でしたけれど、武井武雄先生という芸大出の童画家を編集顧問に迎えて、たいへんいい絵本の出版をしました。今でも絵本を研究している人は、鈴木仁成堂の絵本というのは戦前を語るときにはなくてはならない存在だと評価しています。
  父は空襲で亡くなりました。私が13歳、旧制中学1年の時でした。21歳になったのを機会に鈴木出版を創業し、父のやりかけたことを継ぐ決心をしました。
漫画本
  少し余裕が出来てきたので、将来の出版企画を考えはじめました。昭和30年代の終り頃から40年代は、貸し本漫画が非常に盛んになっていました。すごろくの企画の中に手塚治虫さんの「リボンの騎士」がありましたから、手塚さんとのご縁もできて、手塚治虫の漫画を出版したいと思い、いちばん最初に発行したのは『ロック冒険記』、そのあと『手塚治虫全集』なども発行しました。ただ、貸し本漫画が全盛でしたから、書店の店頭よりも貸し本屋へ行ってしまうわけです。そうすると部数に限度が出てしまう。それに、手塚治虫・うしおそうじ等の読者は雑誌がそれを担っていて、単行本では貸し本漫画で育った作家のほうが、若い人に喜ばれたんですね。白土三平・さいとうたかを・水木しげるなどです。私は貸し本向はあまりやりたくなかった。当時から、文化としての出版をやりたいという気持ちがいつもありましたし、やがてあの世で会ったとき、父に胸をはれるような業績を残したいという思いがありました。それに、このまま貸し本が盛んな時代が続くのかしらという疑問もありました。
  ですから、手塚治虫さん・うしおそうじさんの、きちんとしたいい本を作ったのですが、貸し本を意識しないで作っても、時代が貸し本時代だったので、貸し本に流れてしまった。これはあまり成功したとはいえない。逆にいうと、成功しなかったのは、幸せだったかもしれない。それから、漫画の中で唯一売れたのは、原作は川内康範で漫画は井上球二の『月光仮面』。これは十数点作って、よく売れました。
テレビと連動したキャラクター絵本
  ディズニーのカルタ、すごろくから出発して、次になにをやったかというと、新年度が始まって5月ごろになると社員にアンケート用紙を作らせて、近くの小学校を回らせたんです。「ラジオはなにを聞いていますか。雑誌の好きな連載は何ですか。」など、子供からデータを取りました。そして人気があるものをキャッチして、版権者と交渉して版権を買って、カルタやすごろくを作ったりしていました。
 TV時代に入ってNHKの「チロリン村とくるみの木」という番組がありました。これは千葉に住んでいる恒松恭助という人の脚本で、丹羽文雄の弟子でした。この人と知り合って、「チロリン村」のカルタや絵本・童話等を出版しました。成功したのは絵本です。それまでキャラクター絵本というと、ディズニーしかなかったんです。しかも当時はまだ新潮社が数点出していただけで、ディズニー映画が封切られるときに、それと同じ題名の絵本が出るといったように、単発のような形で出ていたんです。
  絵本というと、当時絵本(厚紙の絵本)の大手がフジヤ書店でした。小学館の合紙絵本もありましたね。「チロリン村とくるみの木」という、初めてテレビから題材を持ってきた絵本で、デパート関係に強かった取次会社の土屋信明堂の社長なんか「こんなの売れないよ」と言うんです。「売れるか売れないか、売ってみてから言ってくれ」と言いました。引き続いてアメリカの「ポパイ」だとか「フィリックス-ザキャット」等、何点かの版権を、朝日新聞の中にオフィスがあったエージェントを通して契約して持っていました。よく売れました。
  そういうことをやっているうちに、手塚治虫さんの「鉄腕アトム」が動画になってテレビで放映されるようになりました。漫画のほうは光文社の「少年」という雑誌に連載されていましたし、単行本も光文社から出ていましたから、手塚先生に漫画読者より低年令の子供向けに「絵本にさせてくれ」と言ったんです。「忙しくて描く暇なんかない」と言うので、「契約さえしてくれれば、先生は描かなくていい。原画はこちらで作るから」と言って、知り合いの漫画家を動員して二十点ぐらい発行しました。280万部くらい売れました。
  そしてそれが終わらないうちに、横山光輝さんの「鉄人28号」が放映されるということを聞いて、横山さんのところへ行きました。横山さんのカルタも出していましたので、一生懸命交渉して、契約が成立しました。これも『アトム』と同じくらい売れました。これが、鈴木出版の今日の基礎を築いたのです。
幼少研と「幼稚園リーダー」
 こんなことをやって10年が過ぎました。“次のステップにビジョンを定めて進もう”と考えました。戦後の物不足も過ぎて、世の中がだんだん落ち着いてきて、これからの世の中は何に目が向くだろうと考えたら、教育だなと思い当たりました。それも幼児教育だと。戦前も戦後の一時期も幼稚園や保育所の数は少なかったんですが、幼児教育の教材も少なくて、一部の出版社の寡占状態でした。
  そして、幼児教育の手がかりを作るために、最初にやったことは、東京学芸大学の辰見敏夫先生にお願いして作った『知能の訓練とテスト』というシリーズでした。中綴じの見開きの本で売れてはいたのですが、たくさん売るのにはふさわしくないと思って、まったく内容を同じにして、『知能のワーク』というシリーズを作ったんです。これが非常によく売れた。そしてこれを通して、角尾稔先生や友松諦道先生に知遇を得ました。そして人脈が増えたころ、辰見先生に「実は幼児教育のほうに本格的に進出したい。ついては先生、研究所を作ってくれませんか」とお願いしました。「出版社が企画発行したものを幼稚園が買って子どもにお土産として持たせるお土産絵本ではない、実際に保育の現場で役立つ、教材絵本を考えたい。園長さんが参加してカリキュラムや、幼児教育のテーマを設けて研究した成果が本にならなければおかしい。そのためにも先生、研究所を作ってください」と言うと、「わかった。角尾先生・友松先生にも頼もう」とたちまち話がまとまり、園長先生達に参加を呼びかけ、幼少年教育研究所というのができたのです。鈴木出版がスポンサーの、最初は任意団体でした。現在では立派な財団法人として関章信先生が理事長となって活動しています。
 研究の成果として『幼稚園リーダー』、今の『ステップブック』が発刊されました。それまではいわゆる観察絵本というようなものしかありませんでした。幼児教育をカリキュラムから考えて、評価までついているというので、幼稚園界の意見は真っ二つに分かれました。幼児を評価するとはなにごとかというのと、すばらしいというのと、二つに分かれました。辰見先生の専門は心理学ですが、もともと評価の専門家なのです。「評価は必要である」「評価しなければカリキュラムがよくなるはずがないんだ」というご意見です。教材があって、それを現場でガイダンスして、その結果を評価しなければ、カリキュラムの改良のしようがないじゃないかというのです。評価というのは、子どもを評価するのではなく、教師がどのようにその教材を与えたかということと、幼児の理解度を評価するんだというわけです。これもまた保育出版の世界に一大センセーションを巻き起こしました。
  『幼稚園リーダー』の特色は、今までに予想もつかないようなワークブックがついていて、評価簿までついているという革新的なものだったということと、園長先生たちが集まって研究して作ったものであるということです。(続く)
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